歴史 − カトリック中島町教会

カトリック中島町教会の歴史

カトリック中島町教会の歴史をご紹介します。

パリ外国宣教会時代

 四国の宣教は。1882年2月、パリ外国宣教会のマレン・ブレシ神父が大阪から高知に派遣された時に始まる。
 神父の乗った船は海が荒れていたため、浦戸(高知)に入らず、須崎に廻り、歩いて高知に向かった。当時人口2万に満たない高知の町をキリストの福音を述べ伝えるのに最も将来性のある土地として選ばれたのは、恐らく明治維新に武士の残した偉業のの感化が大きかったことと、自由民権思想で知られていた土地柄を考えてのことではなかったかと言われている。神父は、高知への途中で、店番がいなくて、代価を記しただけで、行く人に必要な品が置いてあるのを見て、土佐人の純朴さに心を打たれたという。神父は、小高坂桜馬場に家を求めて最初の教会とし、直ちに伝道を開始した。この土地に住んで半年、やがて小升形に土地を購入して移った。1883年5月、須崎の江口増源という20才の青年に洗礼を授け、最初の信者を得た。
 神父の布教活動は着実に報いられ、1884年には5名が洗礼を受け、さらに翌年には27名が信者となり、1886年7月にクーザン司教は、高知に赴いて20名に堅信の秘跡を授けた。
 1888年には25名に洗礼を授け、そのうちの一人山本純志は、業を終えると、横畠村清水(現高岡郡越知町)に帰り布教に挺身したが、19才で生涯を終えた。彼のお墓は学校の裏の墓地にある。後ドミニコ会時代におみ堂が建設された。1888年3月、信者が増えてきたので中島町に土地を買い、教会を建てた。当時信徒数は101名。
 1894年、デュツー神父は汐江山に土地を購入し、教会墓地を造成した。

ドミニコ会時代

 聖ドミニコ修道会は、1904年10月2日付で、アルバレス神父を初代教区長に任命、すぐに4人の宣教師を高知に迎えた。1904年の名簿には182名が記載されていたが、内紛のため100名ほどの信者が聖公会に移っていった。
 1906年、高知から西へ40キロの高岡郡横畠村清水に土地を購入し、聖ヨセフに捧げる聖堂と司祭館を兼ねた家の献堂式が行われた。1936年、この聖堂は閉鎖され、伝道所はその地区に寄付された。
 高知以外の布教は、交通の便が悪く、人力車で行ける所まで行き、それからはどんなに道が遠くても、山のなかの長い道をてくてく歩いた。演説会や幻灯会を催しながら、あちこちを回るというやり方であった。
 外国人が珍しかったその頃、カトリックは「天主教」と呼ばれていたので、よく天理教と間違われた。天主教も天理教をまねて、印半纏をつくり、襟に天主教と染め抜いたものを着て、葬式の時など町を練り歩いた。
 1913年11月、現在の土地に赤れんが造りの大聖堂が完成し、日本26聖人に捧げて献堂式が行われた。この様子は「声」1913年12月号に詳しく述べられている。翌1914年12月には、3階建てれんが造りの司祭館が落成し祝別式が行われた。
 1945年7月4日未明、高知市は大空襲に遭い、大聖堂は戦火に包まれて完全に焼失。神父達は幸いに焼け残った新本町教会に移り、信徒もこちらへ合流した。
 1948年、ドミニコ会の本部は松山へ移り、同年11月にはオブレート会の神父が来日。1949年12月にオブレート会に移管された。